2012.11.06
Patiで生活をしていると輸入品を多く見ることが出来ます。
そのほとんどがMade in Chinaです。時計、おもちゃ、バイクの部品、鍋釜類、その他生活用品、インドネシアでは中国からの輸入品が至る所で目につきます。
バイクの部品などはパッケージにタイ語の文字が記載され、下のほうにカタカナで「プラ」とか「リサイクル」など記載しているものもありますが、関係者の話によると、一見Made in Thailandに見えるこの部品も実は中国からの輸入品とのこと。
インドネシアではタイ製品というとかなり評判がいいので、パッケージをこのようにして輸入する、もしくは輸入後にインドネシア国内でパッケージし直すケースが多いようです。
インドネシア政府の「輸入政策」に関する私の意見は何度かこのブログで述べました通り(例えばこの章をご参照いただければと思います)、強めの内需拡大政策がとられているのではないかと思います。
ところで、現代でこそ内需拡大という言葉を使うことに違和感はありませんが、オランダ統治下時代のインドネシアは、「内需」などという単語はどこを探しても見当たらなかったのではないでしょうか。
この章に少し立ち返ります。
オランダ東インド会社は1799年、約200年の歴史に幕を閉じます。オランダ自体がフランス革命の影響をもろに受け、混乱の真っただ中にありました。フランス、イギリスという列強に翻弄されつつある中で、結局19世紀初頭のオランダ議会を牛耳っていたのは「商業的ブルジョワジー」といわれる、政治家兼ビジネスマンのような人々でした。
そのため、貿易活動で利益を得るということよりも、インドネシアを支配してしまい、自分たちの利潤の為の基地にしようと考えたようです。つまり今まではオランダ東インド会社に任せていたものを、直接オランダ政府が統治するようになったということになります。
それにより、インドネシアへの搾取はますます強まります。金を得るための最も有効な手段は、究極的にはただ同然の物を高く売ることになります。オランダ政府はインドネシアでこれを始めました。19世紀初め頃といわれています。つまり強制的に砂糖、コーヒー、ゴムなどをインドネシア人に栽培させ、ただ同然の値段で買い取っていたわけです。住民にとってほかに選択の手段はありません。
そのため、今までは農作物の畑や水田であったものが、例えばサトウキビ畑に替えられてしまえば、その分食料が減ることになり、餓死者も多く出る結果になりました。
こうなると、もう内需という概念はなく、オランダがインドネシアに何かを輸入しようとしても当然売れるはずはありません。そのためますますオランダは、インドネシアのことを原料供給のための基地としか見なくなるわけです。
そのオランダの主力原料として位置していたものの一つが、コーヒーであります。
弊社LJA がコーヒーの供給を受けている中部ジャワのMuria山は、山全体でコーヒーが採れると言っても過言ではありません。標高は約2000mで、インドネシアでは中堅どころの山のサイズになります。この山だけ見ても「どれだけコーヒーが採れるのか??」と、気が遠くなるくらいの生産量だと思いますが、こういった山がインドネシアではいくつもあり、それがジャワ島だけではなくいくつもの島にあります。
もともとインドネシアにはコーヒーというのは存在せず、オランダが栽培を持ち込んだものですが、よくぞたかが100年か200年の間にここまでの生産体制を築くことが出来たと、半ば恐ろしくもなります。もちろん利潤追求のための栽培になりますので、その結果と利潤への意欲は基本的に正比例することになります。
このような豊富なコーヒーの供給体制にもかかわらず、オランダ統治下では、インドネシア人はコーヒーを飲むことが禁じられていました。オランダの絶対的な統制の為にはこういった決まりは必要だったのでしょう。
そんな中で生まれたのがKopi Luwakというものです。
Kopiはコーヒーを意味します。Luwakはジャコウネコという動物を指します。このジャコウネコ、コーヒーの実を食べるのですが、それを消化することが出来ず、フンとして豆を輩出します。
コーヒーを飲んでみたいと思っていた住民たちは、そういったジャコウネコのフンを拾い集めてきれいに洗い、そして精製をして飲んでいました。こういったものであればさすがにお咎めはないであろうと彼らは考えたのです。今ではインドネシアの特産品であるコピルアックも、このようなインドネシアの歴史の結果生まれた産物になります。
弊社はKopi LuwakのビジネスでMuria山のKeletという地域のコミュニティーと取引があります。Patiからそう遠くないこともあり、このKeletにはしばしば訪問するのですが、以前彼らに聞いてみました。「もしコーヒーを飲んでいるのが見つかったらどういう罰が待っているのですか?」と。
彼らは口々に言いました。”Mati”, “Mati semua”(死ぬんだよ。みんな死ぬよ。)つまり死刑になるということです。
中部ジャワのスマランにはオランダ統治時代の建物があります。相棒のイカサンはしきりに「ここの地下には刑場があって、今でもその霊が・・・・・」と建物の前を通るたびにささやきます。
コピルアックのブログはこちらからご覧いただくことが出来ます。興味がおありの方は是非お越しいただければと思います。
[full][/full]
KeletのLuwakの写真です。[full][/full]
Sampai Jumpa Lagi,[full][/full]
Koki